憲法76条第2項という「罠」
憲法の改正論議が活発化する中、ほとんど語られていない重要な問題があります。それは憲法76条第2項の「特別裁判所は設置できない」という制約です。この規定によって、日本の自衛隊は世界でも例のない、「軍隊なのに専属の裁判制度を持たない」という奇妙な状況に置かれています。
占領期に込められた意図
GHQ(連合国軍総司令部)の憲法草案には、「特別な法廷(extraordinary tribunal)は設けない」という一文があります。ここで言う特別法廷とは、まさに軍隊内部での裁判、つまり軍事法廷のことです。草案を起草したアメリカの軍人たちは、自国の軍事法廷制度を熟知していました。その彼らがこの禁止条項を加えた背景には、日本に軍隊を再び持たせないよう、軍事行動を裁く機能すら奪うという徹底した非武装化の意図があったと考えられます。
世界でも異例の構造
現在の自衛隊は約25万人の人員、年間5.4兆円を超える予算、F-35戦闘機やイージス艦の保有、さらに海外派遣の経験まで持っています。しかし、これほどの装備と活動を担う組織でありながら、軍事法廷を制度として設けていないのは、世界でも日本くらいです(軍隊を持たない小国を除く)。
軍隊にとって、専属の裁判制度は不可欠です。命令違反、機密漏洩、戦場での規律違反などは、通常の法律だけでは対応できません。しかも、戦地や外国での事件では、どの国の裁判所が扱うか、どんな知識が必要かといった問題が複雑に絡みます。民間の裁判では判断や対応が間に合わず、軍の規律が機能しなくなる恐れすらあります。
現実に起きている問題
自衛隊員による違法行為は、すべて一般の刑事裁判所で裁かれるしかありません。たとえば、軍事機密が関係する事件では、一般の裁判官や弁護士、陪審員までもが機密情報に触れざるを得ず、公開の場で漏洩する危険があります。また、戦地での判断や命令の是非を、軍の事情を知らない裁判官が後から審査することになるわけです。
例えるなら、違反したら死刑になるような究極の試合で、反撃しか許されず、事前に使っていい技とその形まで細かく決められているレスラーと、反則さえしなければ何でもできる相手とが戦うようなものです。
どちらが勝つ可能性が高いかは、想像すればすぐにわかりますよね。これは自衛隊と普通の軍の制度的差を、直感的に描く例えに過ぎませんが、非対称的でいかに深刻かがイメージしやすくなるのでないでしょうか。
海外派遣が日常化する中、現地での違法行為への対応はさらに困難です。派遣先での法的扱いや、その国に裁判機能がない場合の対応、戦闘状況下での規律違反への即応措置など、一般の司法制度では処理できないケースが次々に現れています。
なぜ軍事法廷がなければ「戦えない」のか
軍事法廷は、兵士の違反行為を裁くだけでなく、戦場での行動が法的に正当かどうかを判断し、国家としてその行動を説明できるようにする場です。たとえば、敵兵への攻撃は平時の法律では殺人や傷害になります。軍事法廷がなければ、それを任務として認める場がなく、戦いの結果が違法とされる可能性があります。
つまり、戦闘行動が軍の判断で行われたものであっても、一般の裁判では“ただの違法行為”として扱われかねない構造があるのです。上官の命令で行った攻撃が「殺人の教唆」とされる、現場での緊急判断が「正当防衛に該当するか」で争われる――。こうした不安があれば、兵士も指揮官も安心して任務に集中できません。
軍事法廷は、そうした行動を「戦術」「任務」「軍務」として整理し、必要な判断を軍の視点から行うための仕組みです。これがない限り、戦って勝ったとしても、“その戦いは違法だったのかもしれない”という不安が残るのです。これは兵士の心理だけでなく、国家の抑止力にも悪影響を及ぼします。
同盟国との制度的ギャップ
アメリカ軍は統一軍事司法法典(UCMJ)をもとにした軍事法廷制度を整備し、専門の軍事裁判官が戦時・平時を問わず迅速に裁く仕組みを持っています。これによって、軍事行動の正当性や責任の所在を明確にしています。
一方、日本の自衛隊にはそうした制度がなく、すべての問題を一般裁判所に頼るしかありません。この違いは、日米の共同作戦時に指揮権や責任の所在を巡って齟齬を生じさせ、「規律のない軍隊」「戦えない軍隊」という評価につながりかねません。それは、抑止力の根幹を揺るがす問題です。
憲法議論の“もう一つの盲点”
現在の憲法改正議論は主に9条に集中していますが、76条第2項の制約はほとんど触れられていません。これは極めて重大な見落としです。仮に9条を改正して自衛隊を「正式な軍隊」と位置づけても、76条が変わらない限り、軍事法廷は設置できません。つまり、「軍隊としての名前は与えられても、軍として戦うための制度は整わない」という新たな矛盾が生じるのです。
真の独立国家を目指すために
日本が軍事的に主権ある国家として自立するためには、9条の改正だけでは足りません。76条第2項の「特別裁判所設置禁止」もあわせて見直し、軍事法廷制度をしっかり整える必要があります。
現在の「軍事法廷なき軍事組織」という状態は、70年以上前の占領政策の名残です。自衛隊は装備・任務の面では国際水準に達していますが、戦闘行為の処理と説明の制度だけが抜け落ちたままなのです。このギャップを解消しない限り、日本は戦える装備を持ちながら、戦う制度を持たない国家という矛盾を抱え続けることになります。